~1950年代日本人の目を守れ! 著名人が作った初期の目薬
眼病治療が主な目的
江戸時代までの日本は栄養状態や衛生状態が悪く、炊事の煙や土埃などにより、眼病を患う人が多かったという。とはいえ、庶民は眼科医を受診できるような余裕もなく、民間療法や売薬による治療が主だった。当時の目薬は膏薬で、まぶたに塗ったり、水で薄めて目を洗ったりしていたという。
液体タイプの目薬が登場したのは、慶応3年(1867年)のこと。アメリカ人医師に教わった処方を元にした「精錡水(せいきすい)」である。ガラス瓶に入った目薬で、毛筆やガラス管を使って点眼したという。

近代的な目薬の元祖とされているのが、帝国大学(現:東京大学)の協力を得て、田口参天堂(現:参天製薬)が1899年に発売した「大学目薬」。信頼感のある商品名と、外国人博士風のイラスト、そして
世の進むに従ふて目薬にもこんな立派な物が出来ました
という宣伝コピーが話題となり大ヒットした。

日露戦争(1904~1905年)が終結した頃、失明の危険性もある結膜感染症・トラホーム(トラコーマ)が国内で流行したため、各社からさまざまな液体目薬が登場する。
信天堂山田安民薬房(現:ロート製薬)の「ロート目薬」(1909年)もそのひとつ。当時としては珍しいカタカナの商品名は、処方を作った眼科医・井上豊太郎の恩師、ロートムント博士からとったものだった。やがて1931年、同社は画期的な新容器「滴下式両口点眼瓶」を開発。これにより「ロート目薬」は爆発的にヒットし、一躍トップブランドとなった。

なお、他の目薬と少し異なる訴求をしていたのが、玉置製薬の「スマイル」(1930年)である。当時の広告には“美しき瞳に”“明るい瞳を作る”など、眼病治療薬の範囲に留まらない、保健薬的な使い方を示唆するフレーズが並んでいた。
2大企業、それぞれの選択

戦後の経済復興に伴い衛生状態が良くなると、目薬に求められる役割も<眼病治療>から眼の健康を考える<保健目的>へと広がる。また、1958年には国民健康保険法が改正され、誰もが病院にかかりやすくなった。
そうした時代の変化のなかで、田口参天堂は参天堂製薬へ、やがて参天製薬へと社名を変更。眼科用薬のスペシャリストとして、医療現場と一般用医薬品の両面から目の健康をサポートするべく、医療用医薬品事業に進出することを決定した。
また、ともに目薬業界を牽引してきた信天堂山田安民薬房も、ロート製薬へと社名を変更。日本で初めてお客様アンケートはがきを医薬品(1952年の「ロートペニマイ目薬」)に同封するなど、生活者の声を重視してきた同社は、あえて医療用医薬品事業へは進出しないことを選択する。
目薬業界のリーディングカンパニーである2社は、それぞれ別の道を歩み始めたのだった。



