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目薬歴史市場シェア

2023年5月26日グラフ更新

五感のなかでも、知覚情報の80%以上を占めるとされる視覚。「百聞は一見にしかず」「目は口ほどに物を言う」など、日本には目にまつわることわざも多いが、一方で、近代まで多くの人が眼病に苦しんでいたという。今ではすっかり身近な医薬品となった、目薬についてご紹介したい。

※本文中の商品情報(特長・価格・キャッチコピーなど)は、発売当時の製品に関するものです。

目薬の進化

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~1950年代日本人の目を守れ! 著名人が作った初期の目薬

眼病治療が主な目的

江戸時代までの日本は栄養状態や衛生状態が悪く、炊事の煙や土埃などにより、眼病を患う人が多かったという。とはいえ、庶民は眼科医を受診できるような余裕もなく、民間療法や売薬による治療が主だった。当時の目薬は膏薬で、まぶたに塗ったり、水で薄めて目を洗ったりしていたという。

液体タイプの目薬が登場したのは、慶応3年(1867年)のこと。アメリカ人医師に教わった処方を元にした「精錡水(せいきすい)である。ガラス瓶に入った目薬で、毛筆やガラス管を使って点眼したという。


田口参天堂 「大学目薬」 (1899年発売※) ※処方等を変更し、現在も販売中

近代的な目薬の元祖とされているのが、帝国大学(現:東京大学)の協力を得て、田口参天堂(現:参天製薬)が1899年に発売した「大学目薬」。信頼感のある商品名と、外国人博士風のイラスト、そして

世の進むに従ふて目薬にもこんな立派な物が出来ました

という宣伝コピーが話題となり大ヒットした。


信天堂山田安民薬房 「ロート目薬」 (1909年発売)

日露戦争(1904~1905年)が終結した頃、失明の危険性もある結膜感染症・トラホーム(トラコーマ)が国内で流行したため、各社からさまざまな液体目薬が登場する。

信天堂山田安民薬房(現:ロート製薬)の「ロート目薬」(1909年)もそのひとつ。当時としては珍しいカタカナの商品名は、処方を作った眼科医・井上豊太郎の恩師、ロートムント博士からとったものだった。やがて1931年、同社は画期的な新容器「滴下式両口点眼瓶」を開発。これにより「ロート目薬」は爆発的にヒットし、一躍トップブランドとなった。


当時の玉置製薬「スマイル」広告

なお、他の目薬と少し異なる訴求をしていたのが、玉置製薬の「スマイル」(1930年)である。当時の広告には“美しき瞳に”“明るい瞳を作る”など、眼病治療薬の範囲に留まらない、保健薬的な使い方を示唆するフレーズが並んでいた。

2大企業、それぞれの選択

戦後の経済復興に伴い衛生状態が良くなると、目薬に求められる役割も<眼病治療>から眼の健康を考える<保健目的>へと広がる。また、1958年には国民健康保険法が改正され、誰もが病院にかかりやすくなった。

そうした時代の変化のなかで、田口参天堂は参天堂製薬へ、やがて参天製薬へと社名を変更。眼科用薬のスペシャリストとして、医療現場と一般用医薬品の両面から目の健康をサポートするべく、医療用医薬品事業に進出することを決定した。

また、ともに目薬業界を牽引してきた信天堂山田安民薬房も、ロート製薬へと社名を変更。日本で初めてお客様アンケートはがきを医薬品(1952年の「ロートペニマイ目薬」)に同封するなど、生活者の声を重視してきた同社は、あえて医療用医薬品事業へは進出しないことを選択する。

目薬業界のリーディングカンパニーである2社は、それぞれ別の道を歩み始めたのだった。

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